「もし労働基準監督署の調査が入ったら、うちの会社は何を見られるのだろうか」——このような不安を持つ人事・労務担当者の方が、近年急速に増えています。実際、精神障害の労災請求件数は年々増加を続けており、それに比例して労基署によるメンタルヘルス関連の指導・是正勧告のケースも増加傾向にあります。
労基署の調査というと「重大な労災が起きた企業だけの話」というイメージを持たれがちですが、実際には精神障害の労災請求は業種・企業規模を問わず発生しており、どの企業にとっても無関係ではいられないテーマになっています。とりわけ人事・労務担当者にとっては、いざ調査が入ってから慌てて資料を揃えるのではなく、日頃からどのような視点で自社の体制を点検しておけばよいのかを知っておくことが、リスクマネジメント上きわめて重要です。
本記事では、労基署が実際にどのようなポイントをチェックしているのかを、公表データをもとに整理したうえで、是正勧告に至りやすい典型的なパターンや、企業が今日から取り組める具体的な備えについて詳しく解説します。人事・労務担当者の方はもちろん、経営層の方にもぜひ押さえておいていただきたい内容です。
目次
労基署はなぜメンタルヘルスを重視するのか
労基署が行う調査は、大きく分けて2種類あります。1つは、あらかじめ計画された定期的な「臨検監督」です。もう1つは、労働災害(労災)の発生や労災請求をきっかけとして実施される「災害調査」です。メンタルヘルスに関して特に注目度が高いのは、後者の災害調査です。
厚生労働省が公表した令和6年度の「過労死等の労災補償状況」によると、精神障害に関する労災請求件数は3,780件にのぼり、前年度から205件増加しました。この数字は、10年前と比較するとおよそ2.6倍という水準にまで拡大しています。さらに、労災として認定された件数も1,055件と、統計開始以来はじめて1,000件を超え、6年連続で過去最高を更新する結果となりました。
認定事案の原因として最も多く挙げられているのが、上司などからのパワーハラスメントです。これは、単なる長時間労働だけでなく、職場における人間関係やコミュニケーションの質そのものが、メンタルヘルス不調の大きな引き金になっていることを示しています。
従業員がうつ病などの精神障害を発症し、労災請求が行われた場合、労基署は「発症前のどの程度の期間に、どれだけの心理的負荷が業務上かかっていたか」を詳細に調査します。この調査の過程で必然的に確認されるのが、企業の労務管理体制そのものです。つまり、たった一人の労災請求がきっかけとなり、会社全体の労務管理・メンタルヘルス対策の実態が精査されることになるのです。これは規模の大小を問わず、すべての企業にとって他人事ではありません。
さらに近年は、労災請求そのものが発生していない段階でも、従業員や退職者からの相談・申告をきっかけに、労基署が任意の調査に乗り出すケースも見られます。ハラスメントに関する相談が労基署や総合労働相談コーナーに寄せられることも珍しくなく、「労災請求が来ていないから安心」とは言い切れない状況が広がっています。こうした背景から、事後対応ではなく、平時からの体制整備が企業にとって不可欠な経営課題になりつつあるのです。
労基署の調査は、どのような流れで進むのか
具体的なチェックポイントを見る前に、調査全体の大まかな流れを押さえておきましょう。臨検監督の場合、事前に日程調整の連絡が入り、当日は担当官が事業所を訪問して、就業規則や36協定届、賃金台帳、出勤簿などの帳簿書類を確認します。一方、災害調査の場合は労災請求をきっかけに開始されるため、事前の予告なく資料提出を求められることもあります。
いずれの場合も、調査の結果、法令違反が確認されれば「是正勧告書」が交付され、期限までに改善内容を報告することが求められます。重大な違反や改善が見られない場合には、送検に至るケースもあります。是正勧告は行政指導であり刑事罰そのものではありませんが、対応を怠ると企業名が公表されるリスクや、送検による社会的信用の毀損につながりかねません。だからこそ、調査が入ってから慌てて対応するのではなく、日頃から求められる書類や記録を整備しておくことが、何より重要になるのです。
労基署が実際にチェックする6つの具体的なポイント
労基署がメンタルヘルス関連の調査で確認する項目は、主に次の6つに整理できます。それぞれのポイントについて、企業側が注意すべき実務的な観点とあわせて解説します。
1.時間外労働の実態
まず確認されるのが、時間外労働の実態です。厚生労働省の発表によると、令和6年度に労基署が長時間労働の疑いで監督指導を実施した26,512の事業場のうち、11,230事業場、実に4割以上で違法な時間外労働が確認されています。
具体的には、いわゆる36協定で定めた上限時間を超えていないか、サービス残業が常態化していないかといった点が厳しくチェックされます。近年では、自己申告制のタイムカードの記録だけでなく、PCのログイン・ログオフ時刻や社内システムへのアクセスログとの乖離がないかまで照合されるケースが増えており、形式的な労働時間管理だけでは通用しなくなっています。
特に注意したいのが、「持ち帰り残業」や「早出・休日出勤の未申告」といった、記録に残りにくい労働時間です。管理職自身が「これくらいは申告しなくてもいい」と自己判断してしまっているケースや、みなし残業制度の運用が実態と乖離しているケースも、労基署が重点的に確認するポイントの一つです。日頃から、勤怠データと業務システムのログを定期的に突合し、乖離が生じていないかをチェックする運用を社内に根付かせておくことが望まれます。
2.長時間労働者への医師による面接指導
2つ目のチェックポイントは、長時間労働者に対する医師の面接指導です。労働安全衛生法では、月80時間を超える時間外・休日労働を行った従業員に対し、本人の申し出があれば医師による面接指導を実施することが義務付けられています。
労基署は、対象となる従業員に対して面接指導が実際に実施されているか、そしてその記録が適切に保存されているかを確認します。先述の監督指導の結果を見ると、健康障害防止のための措置が未実施だった事業場は5,691事業場、割合にして約2割にのぼりました。制度としては存在していても、実際の運用が伴っていない企業が少なくないことがうかがえます。
面接指導が未実施のまま放置されてしまう背景には、「対象者を人事部門が正確に把握できていない」「本人からの申し出がなければ動かない仕組みになっている」といった運用上の問題が潜んでいることが多くあります。対象者の抽出から産業医への連携、実施記録の保存までを一連のフローとして仕組み化し、担当者の異動があっても運用が途切れないようにしておくことが重要です。
3.ストレスチェックの実施状況
3つ目は、ストレスチェック制度の実施状況です。従業員数50人以上の事業場では年1回のストレスチェックが義務付けられていますが、労基署の確認ポイントは「実施したかどうか」だけにとどまりません。
高ストレスと判定された従業員への面接指導の勧奨が適切に行われているか、集団分析の結果が実際の職場環境改善にどう活用されているかまで、運用の実効性が見られるケースが増えています。なお、令和6年5月の法改正により、ストレスチェックの実施義務は将来的にすべての事業場に拡大されることが決まっており、今後はより多くの企業がこの観点でのチェック対象となります。これまで努力義務にとどまっていた50人未満の事業場にとっても、決して他人事ではなくなるということです。
制度導入がまだの企業はもちろん、すでに実施している企業であっても、「実施率は高いが、高ストレス者への面接指導の申出率が極端に低い」といった状態は、運用の実効性を疑われる典型的なパターンです。申出をためらう従業員が一定数存在することを前提に、匿名性への配慮や申出のハードルを下げる工夫を、制度設計の段階から組み込んでおく必要があります。
4.社内相談体制の実効性
4つ目は、社内の相談体制が名目だけでなく実効性を持って機能しているかという点です。上司や人事部門への相談ルートが形式上存在しているだけでは不十分とされます。重要なのは、そうした窓口では拾いきれない不調のサインを、会社としてどのように把握し、適切な対応につなげているかという運用の実態です。
社内の人間関係の中だけでは、従業員が本音の不調を打ち明けにくいという構造的な限界があります。上司がハラスメントの当事者である場合や、人事部門との距離が近すぎる中小企業などでは、この傾向がより顕著になります。だからこそ、外部のメンタルヘルス専門機関やEAP(従業員支援プログラム)と連携し、社員が安心して相談できる体制を整えているかどうかも、実務上の重要な判断材料として見られる傾向が強まっています。
相談窓口の存在を周知しているだけでなく、実際に利用された件数や、相談内容がどのように社内の対応につながったかという「その後の流れ」まで記録・追跡できているかどうかが、実効性の有無を分ける大きなポイントになります。
5.安全配慮義務の履行状況
5つ目は、企業に課せられた安全配慮義務がどの程度履行されているかです。従業員から体調不良や不調の申告があった際、会社側がどのように対応したのか。放置していなかったか、対応の経緯を記録として残しているかが問われます。
「知らなかった」では済まされないのが安全配慮義務の考え方です。申告があったにもかかわらず具体的なアクションを取らなかった場合、それ自体が義務違反と判断されるリスクがあります。
また、直接的な申告がなくても、遅刻・早退の増加や表情の変化、周囲からの相談など、会社側が「気づきうる兆候」があったにもかかわらず対応しなかった場合も、安全配慮義務違反を問われる要因になり得ます。上司が部下の変化に気づいた際、誰に、どのタイミングで報告・相談すべきかというエスカレーションのルールを明確にしておくことが、リスク低減のために欠かせません。
6.休職・復職の運用実態
最後の6つ目は、休職および復職に関する運用の実態です。復職の可否判断が主治医の診断書のみに依存していないか、産業医の意見を踏まえた客観的かつ段階的なプロセスを経ているかが確認されます。
主治医は日常生活における回復状況を診る立場にあるのに対し、産業医は職場の業務内容や環境を踏まえて「その仕事に戻れる状態か」を判断する立場にあります。この視点の違いを踏まえずに復職を許可してしまうと、早期の再発や再度の休職につながりやすく、結果として労基署から運用プロセスの不備を指摘される要因にもなります。
さらに、復職後のフォローアップ体制が整っているかどうかも重要な確認事項です。復職して終わりではなく、一定期間は業務負荷を段階的に調整しながら、産業医や人事担当者が定期的に状態を確認していく仕組みが求められます。近年では、治療と仕事の両立を支援する専門人材(両立支援コーディネーター)を活用し、主治医・産業医・職場の三者間の情報連携を円滑にする取り組みも広がりつつあります。
是正勧告に至りやすい典型的な失敗パターン
労基署の監督指導のデータを見ると、違法な時間外労働が認められた事業場のうち、月80時間を超える時間外・休日労働があったケースがおよそ半数にのぼるという結果が出ています。
実際に是正勧告や指導につながりやすいのは、次のようなパターンです。
・長時間労働が継続していたにもかかわらず、面接指導の実施記録が一切残っていない
・ストレスチェックは形式的に実施していたものの、高ストレス者への面接指導勧奨や事後対応が行われていなかった
・上司への相談があったことが確認できるにもかかわらず、人事部門や産業医への情報連携がなされないまま放置されていた
これらに共通するのは、「実施したつもり」「把握していたのに具体的な行動を取らなかった」という状態です。制度そのものは整備されていても、運用の実態が伴っていなければ、労基署の調査では厳しく指摘される対象となります。
ここで重要なのは、書類上の体裁がどれだけ整っていても、実態が伴っていなければ意味がないという点です。逆に言えば、日々の対応の実態を記録として残しておくことこそが、企業にとって最大の防御策になるといえます。
もう一つ見落とされがちなのが、「担当者の異動・退職によって、対応の履歴が引き継がれていない」というパターンです。ある従業員への対応を人事担当者が個人の記憶やメモだけで管理していた場合、その担当者が異動すれば、対応の経緯そのものが会社から失われてしまいます。属人化した対応フローは、労基署調査への備えという観点でも、組織としてのリスク管理という観点でも、非常に脆弱です。誰が担当になっても同じ水準で対応でき、経緯を追跡できる仕組みを整えておくことが求められます。
企業が今日から取り組める3つの備え
ここまで見てきたチェックポイントを踏まえ、企業が今すぐ着手できる具体的な備えを3点ご紹介します。
1.時間外労働の集計とアラート体制の見直し
まず取り組むべきは、時間外労働の正確な集計と、80時間超の従業員を確実に検知できるアラート体制の構築です。自己申告のタイムカードだけに頼るのではなく、PCログなど客観的なデータと突き合わせる仕組みを整えることで、実態と乖離のない労働時間管理が可能になります。あわせて、対象者に対する面接指導の実施と記録保存を、業務フローとして仕組み化しておくことが重要です。
2.ストレスチェックを一連の運用フローとして機能させる
ストレスチェックを「年1回実施すること」自体をゴールにするのではなく、高ストレス者への面接指導の勧奨、そして集団分析結果を職場環境の改善に活かすところまでを一連の流れとして運用することが求められます。実施率だけでなく、その後のフォローアップまでを含めて社内プロセスを整理しておくとよいでしょう。
3.社内だけで完結させず、外部の専門機関と連携する
最後に、最も重要なのが「社内だけで完結させようとしない」という視点です。不調のサインは、社内の人間関係の中では相談しにくいことが少なくありません。上司や人事に相談しづらい従業員が声を上げられないまま不調を悪化させてしまうケースは、決して珍しくないのです。
だからこそ、外部の専門家やEAP機関と連携し、「誰が、いつ、どのように対応したか」を客観的な記録として残せる体制を構築することが、労基署対応の観点でも、そして何より従業員を守るという本質的な観点においても、大きな意味を持ちます。
よくある質問
Q1.労基署の調査は、どのくらいの規模の企業が対象になりますか。
規模の大小は関係ありません。従業員数が少ない企業であっても、精神障害の労災請求や相談が寄せられれば、調査の対象になり得ます。むしろ、体制整備が後回しになりがちな中小企業こそ、日頃からの備えが重要です。
Q2.すでにストレスチェックを実施していれば、それだけで問題ないでしょうか。
実施だけでは不十分です。高ストレス者への面接指導の勧奨や、集団分析結果の職場改善への活用まで含めて、一連の運用として機能しているかどうかが確認されます。「実施すること」自体を目的化しないよう注意が必要です。
Q3.外部のEAP機関と契約すれば、それだけで安心できますか。
契約すること自体がゴールではありません。実際に従業員に利用されているか、相談内容が社内の対応にどうつながっているかという運用実態が問われます。契約後の活用状況を定期的に振り返る機会を設けることをおすすめします。
Q4.是正勧告を受けた場合、どのくらいの期間で対応すればよいですか。
一般的には、是正勧告書に改善報告の期限が明記され、数週間から1か月程度で対応を求められることが多いです。期限内に改善が難しい場合は、進捗状況を担当官に相談しながら対応を進めることが重要です。放置は最も避けるべき対応です。
まとめ:労基署のチェックは従業員を守るための最低限のライン
労基署によるチェックは、決して企業の「粗探し」を目的としたものではありません。むしろ、従業員の命と健康を守るために最低限満たすべきラインを確認するための仕組みだと捉えるべきです。逆に言えば、このラインをきちんと満たしている企業は、それだけで労務トラブルに発展するリスクを大きく下げることができます。
とはいえ、社内の努力だけですべての不調のサインを漏れなく拾い上げるのは、決して簡単なことではありません。時間外労働の管理、ストレスチェックの運用、相談体制の整備、休職・復職のプロセス構築など、対応すべき項目は多岐にわたり、日々の業務と並行してこれらすべてを高い水準で維持し続けるのは、専任の担当者を置いていない企業にとって大きな負担となります。
重要なのは、制度を「作ること」ではなく、「運用し続けること」です。担当者が変わっても、繁忙期であっても、対応の質が落ちない仕組みをどう作るか。そのためには、社内のリソースだけに頼るのではなく、外部の専門知見を積極的に取り入れていく発想への転換が求められます。
だからこそ、メンタルヘルスの専門家やEAP機関と連携しながら、実効性のある体制を会社全体で作り上げていくことが、これからの企業運営には欠かせません。労基署対応の準備を含め、メンタルヘルス対策の見直しをご検討の際は、ぜひミーデン株式会社までお気軽にお問い合わせください。
